中国に広がる北海道の稲作技術 ~洋財神・原正市さん〜
「原先生に来ていただくと、みんな豊かになるそうだ」「『幸せの苗』の作り方をぜひとも教えてもらいたい」。北海道岩見沢市出身の原正市(はら・しょういち)さんが、北海道の稲作技術を中国に伝え始めてまもなく、中国全土からこのような声が沸き起こったと言い伝えられています。
原さんは、中国で『洋財神(ヤンザイシェン)』-(外国から来て富をもたらせてくれた神様のような人)と、多くの中国人から慕われ、北海道と中国との友好関係を語る上では欠かすことのできない道民の一人です。
寒冷地の稲作技術が中国に広がる
原正市さんは、1917年に、岩見沢市の農家に生まれました。北海道庁に勤務した後、北海道農業協同組合中央会で農業関係の事務を担当していた1979年に、農業視察団の副団長として初めて中国を訪問しました。
文化大革命から日が浅い頃の中国の農村風景を目のあたりにし、「ほんの少しの技術協力で中国の米の収量は変わるはずだ」と、長年、北海道の寒さに強い米づくりのための品種改良研究に取り組んでいた原さんに熱い思いが湧きあがりました。退職後の1982年、64歳で北海道黒竜江省科学技術協会の中国派遣団に加わり、それ以来、2002年に85歳で亡くなる直前まで、中国での稲作指導にその生涯を捧げました。21年間で訪中した回数は63回、黒竜江省をはじめ25省151県をほとんどボランティア活動で訪問しました。
当時の中国の米づくりは、直接田んぼで苗を育てる『直蒔』という方法が主流でしたが、原さんが伝えたのはハウスの中で苗を育ててから田植えをする日本古来の畑苗移植法でした。最初の指導を行った寒冷地の黒竜江省で、これまでの14倍の収量をあげたことから、北京などの華北地方、さらに華中地方、亜熱帯の広東地方まで広がり、最後には海南島に上陸するなど、中国全土の水稲作付面積の50パーセント以上で実践され、米が1300万トン以上増産されることになりました。
通じ合う信頼の心と確かな技術
原さんは、技術者であっても気さくで穏やかな人柄で、中国で大変親しまれていました。1979年に初めて中国を視察した時のことです。土壌を確かめたいと、靴を脱ぎ裸足になって田んぼに入り、身をかがめて手で土をすくった原さんを遠巻きに見た農民たちから驚きの声があがったと言われています。泥だらけの原さんの姿に「この人こそ真の農業指導者だ」「真の技術者だ」という評判が視察団の行く先々にまで伝えられたそうです。
一方、原さんにとっても、中国での指導の中でうれしかった出来事の数々が今でも伝えられています。当時は米が週に3度配給される程度の物が少ない時代でした。視察を終えて、遠慮する原さんの足をぬるま湯でそっと洗ってくれた中国人男性が差し出してくれた真っ白なタオルの色は、薄暗い部屋で眩しいくらいの印象だったと言います。
原さんは、「あの湯の温かさが忘れられない。もう夏を迎えるというのにほどよい湯温だったんだよ。言葉の分からないもの同士、湯を通して分かり合えたような気がしました」と、大きな感動を味わったと伝えられており、原さんが中国での技術指導に傾倒したきっかけにもなったエピソードとして知られています。
『洋財神(外国から来て富をもたらしてくれた神様)』
原さんが伝えた稲作技術が、中国で急速に普及し収量も格段に増え続けたことから、原さんには、中国から数々の栄誉ある賞が贈られています。1992年には、中国の社会開発、経済、科学技術、教育、文化などの発展に貢献した外国人に与えられる最高の賞である『中国国家友誼賞』と、李鵬首相からの『栄誉証』が贈られました。さらに、1996年には『中国国際科学技術合作賞』が贈られています。
1998年11月、初来日した江沢民国家主席は、天皇皇后両陛下との会見や日中首脳会談などの公式行事を終えたあと、北海道を訪問することになりました。中国の農業に大きな貢献を果たした日本の農業者の皆さんと面会するのが訪問の目的でした。その農業者の中には、水稲技術を伝えた原さんの姿がありました。「私が伝えた栽培方法を、中国の北から南まで短い期間で普及できたのは中国の皆さんのおかげ。私が81歳になった今も元気なのは、中国の皆さんの喜ぶ笑顔が見たいという気持ちがあるからです」と原さんは、江主席に説明しました。大きな体格の江主席と小柄な原さんが笑顔でがっちりと握手した姿が印象的でした。
札幌市在住の島田ユリさんは、1999年、原さんが残した膨大な中国訪問の記録と本人からの聞き取りをもとに、中国での苦労や感動の数々を綴った著書『洋財神 原正市』を出版しました。また、2009年には、原さんと生前に交流のあった王虎(おう・こ)さん(元国家外国専家局職員)が、この本を中国語に翻訳し『待到稲花瓢香時(稲の収穫を待つ時)』という題名で出版しました。この題名は、稲の花の香りが漂う時期を待つ農民の心を表現したものです。
2009年、中国建国60年を機会に中国国務院や北京大学などの46名の選考委員による『中国に最も貢献した外国の専門家10人』に、一村一品運動の提唱者であり、中国で『一村一品運動』を普及させた平松守彦元大分県知事と一緒に、原さんも選出されました。
受け継がれる原さんの思い
2012年10月、中国天津農学院科技処長の崔晶(さい・しょう)教授が北海道旭川市にやってきました。天津市と東京大学との共同プロジェクトに関わり、水稲の食味育種、食味評価及び生産技術開発に関する研究者です。「昔は収量をどれだけ増やせるかが課題でしたが、今は中国の国民においしい米を食べてもらいたいと活動をしているのです」と語るこの人こそ、当時原さんの通訳を担当していた方です。
崔さんは黒竜江省佳木斯(じゃむす)農業学校の卒業生。1983年頃、原さんの講演会で出会いました。崔さんは1960年生まれで、原さんとの年齢差は43歳。しかし、原さんにとって崔さんはただの通訳ではなく、同じ志をもった農業研究者であり良きパートナーでした。
崔さんは、原さんをこう評価します。「中国の北方に住む技術者や農家の人達は、先生のことをとてもよく覚えています。中国で指導を始めた最初の1~2年は『こんなやり方で通用するのか』と、あまり期待されていなかったのですが、実績が出るにしたがってだんだん認められるようになりました。自分の方向性を変えずに続けていき、実を結んだ原先生の行動を見て、中国人は日本の農業技術者の真剣さや仕事に向き合う志を高く評価しています」。
原さんは、崔さんの日本留学時代には、飲めない酒を酌み交わしたり、卒業後も天津での米づくりに取り組む崔さんを応援したりして、交流を続けていました。2002年春に天津を訪問した原さんが、友好の印として、天津のライラックと碧桃(へきもも)を北海道に植えたいと希望しました。その実現に向けて崔さんが奔走した結果、岩見沢市にライラックと碧桃の苗木が届けられ、2002年10月19日、岩見沢日中友好協会の手により植樹が行われました。苗木を心待ちにしていた原さんは、その光景を見届けたかのように、まさにその植樹された日に、岩見沢市内の病院で息を引きとりました。
訃報を聞いた崔さんは、翌年に岩見沢市を訪れ、きれいな花を咲かせた碧桃の前で改めて原さんと中国との強いつながりを振り返り、「原先生が残してくれた稲作技術とこの繋がりは、今も、そしてこれからもずっと続いていきます。そのことをずっと願っています」と語り、まだ小さくてもしっかりと根を生やしているライラックと碧桃の木にたっぷりと水をやっていました。
<稲作技術協力の状況(1979年技術交流を含む)>
○1982年4月~2002年6月(訪中回数 63回、在華日数 1823日)
○巡回地域:中国33行政区(市・省・自治区)のうち30行政区
黒竜江省・吉林省・遼寧省・河北省・山西省・陝西省・甘粛省・寧夏回族自治区・新疆ウイグル自治区・内モンゴル自治区・北京市・天津市・四川省・重慶市・湖北省・湖南省・貴州省・江西省・江蘇省・上海市・浙江省・福建省・広東省・広西チワン族自治区・雲南省・海南省・安徽省・山東省・河南省・香港