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国際相互理解促進事業報告

ボーダーツーリズム報告「サハリン(樺太)北緯50度国境紀行」

 ハイエック調査研究部上席研究員 高田 喜博

 

 

 

 

はじめに

 2016年8月27日から31日の日程で北都観光(稚内市)が「サハリン北緯50度国境紀行」を実施した。これは、季刊『北方圏』(176号44頁以下など)でもたびたび紹介してきたボーダーツーリズムの一環であり、境界地域研究ネットワークJAPAN=JIBSN=(代表幹事・長谷川俊輔根室市長)や北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター境界研究ユニット(代表・岩下明裕教授)などが協力しており、JIBSNのメンバーでもあるハイエックからは筆者が参加した。本稿は、その報告である。

 

 

北海道を取り巻くボーダー

 日本人の多くはボーダー(国境ないし境界など)を意識することなく生活しており、そのためボーダーを観念的かつ固定的に捉えている。しかし、ボーダーは固定されたものではなく、歴史的に変遷するものである。

 例えば、日本とロシア(帝政ロシア、ソビエト連邦、ロシア連邦)のボーダーの変遷について見てみよう。1855年に江戸幕府と帝政ロシアが締結した「日本国魯西亜国通好条約」(下田条約)によって、択捉島とウルップ島との間に国境が画定され、樺太(サハリン)については国境を画さずに「これまでの仕来り通り」(雑居地)とされた。明治になって、1875年の「樺太・千島交換条約」(サンクトペテルブルグ条約)によって、樺太を放棄する代わりに千島列島の全てを取得した。日露戦争では、日本の勝利がほぼ確定してから、戦後交渉を有利に展開するために日本は樺太全土を占領し、1905年の「ポーツマス講和条約」で北緯50度以南の樺太を獲得した。

 ところが、1945年8月9日にソ連は「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、満州、南樺太、千島に侵攻を開始した。北方四島について見れば、日本がポツダム宣言を受諾した14日の後、28日に択捉島を、9月1日に国後島と色丹島を占領し、さらに、日本が米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印した9月2日の後、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した(南樺太の占領については後述する)。

 1951年の「サンフランシスコ講和条約」で、日本は千島列島ならび南樺太に対する全ての権利を放棄した(当時のソ連はこの条約に調印していない)。このように、ボーダーが大きく変遷してきたし、その一部は現在も確定していない。

 こうした歴史の中で、北海道には交流と対立の複雑な歴史が生まれ、日本人やロシア人だけでなくアイヌなどの北方少数民族を含めた多くの人々の生活があり、また、ドラマがあった。現在、それらは、多様なボーダーツーリズムの魅力を提供している。

 今回は、そうした魅力の一つとして、日本が南樺太を支配していた「日本統治時代」(1905年~45年)の歴史的風景を求め、当時の日ソ国境線であった北緯50度線まで旅をした。

 

札幌からユジノサハリンスクへ

 物見遊山的な従来の観光とは異なり、ボーダーツーリズムでは境界地域における「比較」「学び」「体験」というスタディツアー的な要素が重要となる。従来は、稚内とサハリンを観光することで、容易に「比較」「学び」「体験」することができた。しかし、稚内港・コルサコフ港の定期フェリーを運行していた日本の会社が撤退し、2015年度を最後に休止していたので、新千歳空港・ユジノサハリンスク空港の定期便を利用せざるを得ず、稚内を観光することができなかった(その後の航路の復活については、吉村慎司「サハリン航路復活」〔季刊『北方圏』177号、2016年〕42-44頁参照)。

 そのため、8月27日の渡航前に、札幌市の道庁赤レンガ(北海道庁旧本庁舎)2階にある「樺太資料館」に立ち寄り、サハリンの歴史や文化、太平洋戦争や引揚などに関する展示を前に、北海道大学の井澗裕研究員の解説を聞いた(参考:井澗裕編著『稚内・北航路-サハリンへのゲートウェイ』国境地域研究センター、2016年など)。

 

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「井澗裕氏の解説で、北海道庁旧本庁舎2階の「樺太資料館」で事前勉強をした。」

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「ここには樺太の歴史や文化、戦闘や引揚の様子、その後の交流に関する展示がある。」

 

 その後、各自で新千歳空港へ移動し、19時発のオーロラ航空(旧サハリン航空)でユジノサハリンスク(旧豊原)に向けて出発した。1994年に函館・ユジノサハリンスク線が開設されて以来、ロシア製のプロペラ機アントノフ24が就航しており、2000年にはそれに搭乗したことがある。2001年に新千歳・ユジノサハリンスク線が開設された当初はボーイング737が使用され、2007年にはそれに搭乗した。現在はプロペラ機ながら全日空も使用しているカナダ製ボンバルディアに変わっていた。

 予定の飛行時間80分より幾分早くユジノサハリンスク空港に到着して入国審査をすませた。近年のサハリン渡航は、フェリーを利用していたいので、数年ぶりの空港であった。以前より小ぎれいになったとの印象を持った。

 

ドリンスク(旧落合)周辺

 翌28日の朝9時、一行24名(男性17名、女性7名)は専用バスでホテルを出発した。現地ガイドのエレーナさん、稚内在住の写真家斉藤マサヨシ氏が同行し、北都観光の米田正博氏が添乗した。エレーナさんは、交流団や墓参団などのガイドを務めてきたベテランで、流ちょうな日本語を話すだけでなく、大変な勉強家で豊富な知識を有する。また、斉藤氏は、サハリンの自然と人々の営み、そして日本統治時代の風景を追ってサハリン各地を回り、現地の人さえ知らない深いサハリンを知っている(参考:HPはhttp://westen.jp/)。また、長年にわたりサハリン旅行を企画・実施してきた経験を持つ米田氏には、最初の稚内・サハリンのボーダーツーリズムでもお世話になっている。この3人(+筆者)は、スタディツアー的な要素を有するボーダーツーリズムとって不可欠な存在である。

 

 まず、ユジノサハリンスクの北方43キロに位置するドリンスク(旧落合)でかつての製紙工場跡を遠望し、さらにオホーツク海に面するスタロドゥプスコエ(旧栄浜)で宮沢賢治の足跡を追った。賢治は、1923年の夏、花巻から二つの海峡を渡って、当時日本最北の駅であった栄浜駅にたどり着いた。前年秋に亡くなった妹トシを思いながらの傷心旅行であった。この旅の途中で『銀河鉄道の夜』などの作品で使用される多くのアイディアを得たと言われている。しかし、かつての鉄道は1990年の初めに廃線となっており、既に建物は完全に消滅し、線路も撤去されてしまった。今は、ガイドの案内がなければ、駅の痕跡を探すのも困難である。それにもかかわらず、多くの日本人がここを訪れるため、地元では案内板を建てる計画があるそうだ。

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「王子製紙落合工場跡の廃墟を道路から遠望する。」

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「かつて宮沢賢治が訪れた栄浜駅の痕跡を探す。」

 

ウズモリエ(旧白浦)へ

 さらに北上してウズモリエ(旧白浦)の海岸近くで、白浦小学校(樺太公立白浦国民学校)と白浦神社の跡を訪ねた。ここでも建物などは完全に消滅しており、石造りの奉安殿と鳥居だけが雑草の中にひっそりと遺っていた。

 ウズモリエ駅の駅前には、小さな売店の他、タラバガニやハチミツを売る露店がならんでいた。参加者たちは、大きなカニの写真を撮らせてもらったり、ハチミツやアイスクリームを買ったりして、地元の人たちとほんの少しの触れあいをすることができたようだ。田舎はどこも善い人が多い。ここウズモリエも例外ではなかった。

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「ウズモリエ(旧白浦)の白浦神社跡があった丘の中腹に鳥居だけが遺っていた。」

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「ウズモリエ駅前には大きなカニや地元のハチミツを売る露天が並んでいた。」

 

マカロフ(旧知取)へ

 日本統治時代には知取(しるとる)と呼ばれていたマカロフに到着。現在は人口約6,500人の町だが、日本統治時代は富士製紙(後に王子製紙)の工場と知取炭鉱があり、1941年頃には約18,000人が暮らしていた。ツアーの中に、終戦の前後、この町の小学校(樺太公立知取第一国民学校)に通っていたというW氏がいて、当時の知取の生活、そして、ソ連占領下の樺太や引き揚げの様子などについて、いろいろと聞くことができた。

 W氏の話では、1943年11月24日、その小学校の授業中に火災があり、男子学生23名が犠牲になったそうだ。近年、旧知取出身者たちが小学校跡の一角に慰霊碑を建立した。皆で一緒にその慰霊碑を訪ね、事件の話を詳しく聞かせてもらい、献花をした。

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 「かつて知取神社があった丘から旧王子製紙工場(奥の煙突周辺)を遠望する。」

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「1943年に起きた小学校の火災事故の慰霊碑の前で当時の話を聞き、皆で献花した。」

 


 ユジノサハリンスクから北へ288キロほど移動して、この日の宿泊地であるポロナイ川の河口に位置するポロナイスクに到着した。日本統治時代には日本最北の「町」であり、敷香(しすか)と呼ばれていた。当時は国境に近い北部の中心都市で1941年頃の人口は約30,000人であったが、現在は約15,000人で、1972年から北見市と姉妹関係にある。
ポロナイスク(旧敷香)へ

 ここで最初に案内されたのは、きれいに清掃された小さな公園内にある第48代横綱・大鵬(納谷幸喜)の銅像だった。大鵬は、ロシア革命後に樺太へ亡命したウクライナ人(コサック騎兵将校)と日本人女性との三男として1940年5月29日にこの地で生まれた。この公園は生家があったとされる場所だという。彼が5歳の時にソ連軍が侵攻してきたので、母親と最後の引揚船「小笠原丸」に乗船したが、母親の体調不良により稚内で下船せざるを得なかった。その後、小樽港を目指した小笠原丸は、留萌沖で国籍不明の潜水艦の攻撃を受けて沈没して乗員乗客638名が死亡した(三船殉難事件)。大鵬死去の翌2014年に、その功績をたたえて、この銅像(高さ2.3メートル)が建立された。ガイドさんの話では、ポロナイスク市民も大鵬を敬愛しており、その除幕式は市の創建145周年祝賀行事の一環として行われたそうだ。そういえば、東京のウクライナ大使館にも大鵬の等身大の写真が飾られていると聞いたことがある。

 翌朝は、ポロナイ川の河口へ行った。今も昔も、対岸の中州に通じる橋はない。そのため、2隻の小さな渡し船(自動車2台を積載できる)があり、それで対岸に渡った。ここは「オタスの杜」と呼ばれ、昭和初期に日本政府が指定(強制)した北方少数民族の居住地であった。ウィルタ(オロッコ)、ニヴフ(ギリヤーク)、ウリチ(ナーニ)、エヴェンキ、サハ(ヤクート)などの5民族が暮らし、また、学校(土人教育所)が設置され日本語教育(皇民化教育)がなされた。ここでは、1997年8月15日に遺族会によって建立された「サハリン少数民族戦没者慰霊碑」を訪ねた。当時の日本軍は、ソ連軍の南樺太侵攻に備えて、国境を自由に行き来できて、言葉や地理にも明るい彼らを招集・徴用して諜報活動や戦闘に利用した。その多くは戦死し、生き残った者は日本人将兵と共にシベリヤの強制収容所へ送られた。しかし、戦後、日本政府は日本国籍を有しない彼らに対して、なんの謝罪も補償もしなかった。ウィルタ語、ニヴフ語、ロシア語と日本語で「安らかに眠れ」と刻まれた碑の前で、そうした負の歴史を学んだ。ソ連時代になって少数民族とロシア人との混血が進んだが、彼らの多くがこの地を故郷とし、毎年開催される少数民族の祭りの会場でもあった(最近、祭り会場が町の中心部に移ったらしい)。

 町を出る前に、旧王子製紙敷香工場の廃墟に立ち寄り、その敷地内を歩くことができた。想像以上に大きな工場で、かなり見応えがあった。現在、日本統治時代に建設され、今は廃墟となっている9つの製紙工場跡を観光資源(産業遺産)にしようという動きがある。

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 「ポロナイスク市内の良く整備された公園内に建つ横綱大鵬の銅像」

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「ポロナイスク駅に隣接する操車場にかつての敷香駅のホーム跡や防空壕が遺っていた。」

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「オタスの杜に建つ『サハリン少数民族戦没者慰霊碑』」

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「旧王子製紙敷香工場の廃墟。右は日本時代、左の白い部分はソ連時代の建物である。」

 

北緯50度付近

 我々を乗せた専用バスは、ポロナイスクを出て北へ向かった。ポロナイスクから約73キロでスミルヌイフ(旧気屯)であり、さらに約12キロでポペジノ(旧古屯)、そして約15キロで日本軍の最前線であったハンダサ(旧半田沢)である。日本統治時代の終わり頃に、敷香から北へ軍用道路と軍用鉄道が整備され、1943年に気屯駅が、1944年に古屯駅が開設された。軍用鉄道であったため、時刻表に乗らない駅であったが、開設当時は日本最北の駅であった。

 道路はツンドラの森林地帯をほぼ一直線に走る未舗装道路のみ。おそらく、日本軍が整備した軍用道路(中央軍道)であったと思われる。現在は、あちこちで道路工事がなされていた。その道路脇にソ連時代に建てられた「ソ連軍戦勝の碑(領土奪回の碑)」があった。南を指し示す大きな白い矢印のオブジェで、「ソ連赤軍は古来ロシアの地であった南サハリンを解放した」と記されている。赤い50の文字もあるが、これは旧国境・北緯50度線上に建てられていることを示している。その周囲は、きれに整備・清掃されていた。

 この碑の脇を通り抜けて裏の小道を西へ40メートルほど行くと、かつて国境標石が設置されていた台座を、雑木林の中に見つけることができる。思ったより小ぶりで一部は損壊し、荒れるがまま放置されていた。

 1938年1月3日に、女優の岡田嘉子と演出家の杉本良一が国境を越えてソ連に亡命(駆け落ち)した事件の舞台でもある。二人にはスパイ容疑がかけられ、引き離されて厳しい取り調べを受けた。その後、モスクワで有罪判決を受け、岡田には10年の刑が言い渡され、杉本は銃殺刑になった。

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 「北緯50度線上に建つ『ソ連軍戦勝の碑』」

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「同じく北緯50度戦上に遺る国境標石の台座」

 

国境標石

 日露戦争後、1905年のポーツマス条約で北緯50度線が新しい国境線となり、日露の陸軍国境策定委員会による国境画定作業が開始された。具体的には、天文観測に従い天第1号から天第4号まで4基の国境標石が設置され(「天」は天文観測で設置されたことを表わす)、その間には6キロごとに17基の中間標石が、さらに19ヶ所に木標が建てられた。このラインに沿って、樹木が幅18メートルで伐採され、溝が掘られ、東西約132キロに及ぶ一直線の国境線(ボーダー)が築かれた。

特に重要な4基の国境標石は、高さが64センチ程度で将棋の駒の形をしていた。最も東のオホーツク海側の鳴海に設置された天第1号はサハリン州郷土博物館に、天第2号は根室市歴史と自然の資料館に、それぞれ収蔵されている。今回のツアーで台座を確認した天第3号の行方は不明である(日本統治時代に作られたレプリカがサハリン州郷土博物館にある)。最も西の間宮海峡側に設置された天第4号は、北海道新聞相原秀起記者の取材によれば、ロシア人(私人)が密かに所有しているらしい。

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「サハリン州郷土博物館所蔵の「天第1号」標石の南面には菊花章と日本語が刻まれている。」

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「その北面にはロマノフ王朝の紋章(双頭の鷲)とロシア語が刻まれている。」

 

南樺太での戦闘と慰霊碑

 1913年に樺太守備隊が廃止されて以来、国境地帯は軽武装の国境警察隊によって守られていた。その後、1939年に樺太混成旅団が創設され、対米戦に備えて兵力はしだいに増強されていった。1945年2月には、本土決戦を意識して第88師団に再編された。しかし、軍の編成・配備について、樺太大泊出身の工藤信彦氏は「樺太がひたすら、北海道防衛の防波堤であったことは歴然としている」と書いている(工藤信彦『国境幻想』「日本の国境・いかにこの『呪縛』を解くか」〔北大出版会、2010年〕所収)。60万人の日本人が暮らしていた沖縄同様、40万人が暮らす南樺太も本土決戦の時間稼ぎのための捨て石と考えられていたのかもしれない。

 1945年8月9日に「日ソ中立条約」を一方的に破棄して対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太に対する侵攻作戦を開始した。第79狙撃師団と第214戦車旅団を基幹とするソ連の第1梯団が国境線を突破した時には、最前線の半田沢には日本軍の歩兵2個小隊と国境警察隊の約100名のみが配置されていた。圧倒的な兵力差にもかかわらず、一昼夜にわたり陣地を守り抜き、翌12日にほぼ全滅した。その後も古屯北西の八方山付近に布陣した日本軍との間で激しい戦闘が行われた。ポツダム宣言を受諾した後も戦闘は続き、20日のソ連軍の真岡上陸作戦では、無差別攻撃によって多くの住民が犠牲になり、また、真岡郵便局では電話交換手の自決事件も起きた。次いで22日には、豊原が空襲を受けたが、同日に停戦協定が成立し、翌23日には豊原が占領された。そして、25日の大泊占領をもって南樺太における戦闘はほぼ終了した。それまでに1,062人が戦死し、ソ連軍もそれ以上の戦死者を出した(日本側の推定)。

 また、この南樺太の戦闘に一般市民も巻き込まれ、また、ソ連軍の暴行・略奪もあって、本当に大きな犠牲を払った。一般市民の犠牲は死者だけでも、疎開船撃沈の約1,708名を含めて4,064人であった(樺太資料室の展示)。

 現在、50度線付近には日本軍のトーチ跡が残る他、「ソ連戦争犠牲者の碑」「日ソ平和友好の碑」「樺太・千島戦没者慰霊碑」など建てられている。

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「道路脇に遺る日本軍のトーチカ跡」

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「ソ連軍兵士の慰霊碑」

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「『樺太・千島戦没者慰霊碑』の全景」

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「『樺太・千島戦没者慰霊碑』での献花」

 

ソ連に占領された南樺太

 終戦当時に南樺太にいた約40万人の内、緊急疎開などで脱出できたのは約10万人。残りの30万人は、製紙工場や発電所などを稼働させ、従来の生産体制を維持するため帰還を禁止された。ソ連政府は、ドイツとの戦争で壊滅的な打撃を受けたウクライナなどから、緊急にロシア人をサハリンへ移民させた。その結果、住宅不足から日本人とロシア人の共同生活をしなければならないという事態も生じた(参考:エレーナ・サヴェーリエヴァ『日本領樺太・千島からソ連領サハリン州へ』成文社、2015年)。

 1946年12月になって米国とソ連の合意による帰還が開始され、帰還事業は49年7月まで続いた。しかし、帰還できたのは日本人だけで、韓国・朝鮮人は残留せざるを得ず、また、彼らと結婚した日本人女性も夫と離別しなければ帰還できなかった。

 その後、1956年に日ソ共同宣言が出されて、日本人妻を持つ韓国・朝鮮人の引き揚げが可能となった。この時、日本国籍を有する妻と子供だけは日本政府から帰還手当が支給されたが、韓国・朝鮮人の夫には手当はもちろん移動中の弁当も支給されなかったという(参考:高木健一『サハリンと日本の戦後責任』凱風社、1990年など)。

 

夜行列車

 ユジノサハリンスクから北緯50度線まで約400キロを専用バスで移動してきたが、帰りはスミルヌイフからユジノサハリンスクまで363キロを夜行寝台列車604号で帰った。そもそもサハリンにおける鉄道は、日露戦争後に南サハリン(南樺太)を取得した日本が、1906年にコルサコフからユジノサハリンスク(当時はウラジミーロフカ)までの37.7キロメートルに、ゲージ600ミリの陸軍軽便鉄道を敷設したことに始まる。その後、内地と同じ規格の1067ミリ(狭軌)に改修され、日本統治時代の南樺太の発展と共に延長されていった。所管も陸軍から樺太庁鉄道へ、さらに鉄道省樺太鉄道局が発足して国鉄に移った。

 敗戦後はソ連軍に接収された。しかし、ソ連の規格は1520ミリ(広軌)であり、大陸のワニノ港とサハリンのホルムスク(旧真岡)港を結ぶ鉄道連絡船で輸送されてきたソ連規格の貨車は、ホルムスクで台車交換を行う必要がある。現在、間宮海峡に橋かトンネルを建設して大陸とサハリンを結ぶ計画があり、サハリン内の鉄道も、いずれは全て広軌に改修されるであろう。実際に、マカロフで見た鉄路は、いつでも広軌に換装できるような枕木になっていた(次頁の写真参照)。

 日本の鉄道のプラットホームは高床式で、ホームと列車の乗降口との高低差はないが、サハリンの場合は階段をよじ登らなければならない。荷物を抱えて夜行寝台列車によじ登り(乗り込み)、4名用の寝台コンパートメントに乗り込んだ。これを2名で使うというのであるから贅沢ではあるが、問題は車内での飲酒を禁止する規則だ。車掌ではなく、拳銃を携帯して巡回していた2名の警察官に2度も注意を受けた。しかたなく、ミネラルウォーターのボトルにウオッカを入れ、皆で宴会を続けた。

 翌朝5時、突然、大音量の音楽が車内に流れ、たたき起こされた。到着まで1時間もあるのだが、これが起床の合図らしい。早朝のユジノサハリンスク駅に到着して驚いたのは、昨夜にスミルヌイフ駅で分かれた運転手とバスが、今朝はユジノサハリンスク駅前に迎えに来ていたことだった。昼間は道路事情の悪いサハリンでバスを疾駆させ、夜も一人で長距離を移動してきた運転手さんに感謝した。

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「各自に配られた鉄道切符」

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「広軌の線路を敷設するスペース(左)がある枕木」

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「4名用の寝台コンパートメントの内部」

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「絨毯が敷かれ、壁にコンセントがある車内通路」

 

プリゴロドノヘ(深海村女麗)へ

 ホテルに入って一休みしてから、再び専用バスで液化天然ガス(LNG)の工場があるプリコドロノヘ(旧深海村女麗)に向かった。サハリン北東の大陸棚で行われている石油・天然ガス開発を「サハリンプロジェクト」と呼ぶが、さらに鉱区別に1~6のプロジェクトに分かれており、その中の「サハリン2」の関連施設がプリゴロドノヘにある。北東の海底から産出された石油・天然ガスが、1000キロメートルものパイプラインで輸送される。天然ガスはここで液化され、それぞれタンカーで日本や中国や韓国などへ積み出されている。サハリンの経済発展にとって、このサハリンプロジェクト関連の経済効果(直接収入や雇用の確保など)は重要である。

 この工場と桟橋を見下ろすことができる高台に、日本統治時代に「日本軍上陸記念碑」と「忠恩塔」が建てられたが、現在は無残にもそれらは倒されたまま放置されている(写真参照)。それが、かえって複雑なボーダーの歴史を表しているとも言えよう。

 工場の沖に積出桟橋とタンカーが見えるが、それは大型タンカーが接岸可能な水深があることを示している(写真参照)。日露戦争の勝利をほぼ手中にした日本軍が、1905年7月7日にこの地に上陸作戦を行ったのも、この水深があったからある。

 

 こうして、かつてのボーダー(北緯50度)と新旧のサハリンを訪ね、日本統治時代の南樺太の面影を追った旅は終わった。

 

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「プリゴロドノヘの液化天然ガス工場」

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「工場から伸びる積出桟橋に接岸するタンカー」

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「上陸記念碑の台座の向こうに積み込み中のLNGタンカーを見ることができる。」

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「倒されたままの上陸記念碑には「遠征軍上陸記念碑」と刻まれていた。」


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