公益社団法人 北海道国際交流・協力総合センター
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Hokkaido International Exchange and Cooperation Center
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北海道国際情報ネットワーク
ボーダーツーリズム報告「サハリン(樺太)北緯50度国境紀行」
ハイエック調査研究部上席研究員 高田 喜博
はじめに
2016年8月27日から31日の日程で北都観光(稚内市)が「サハリン北緯50度国境紀行」を実施した。これは、季刊『北方圏』(176号44頁以下など)でもたびたび紹介してきたボーダーツーリズムの一環であり、境界地域研究ネットワークJAPAN=JIBSN=(代表幹事・長谷川俊輔根室市長)や北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター境界研究ユニット(代表・岩下明裕教授)などが協力しており、JIBSNのメンバーでもあるハイエックからは筆者が参加した。本稿は、その報告である。
北海道を取り巻くボーダー
日本人の多くはボーダー(国境ないし境界など)を意識することなく生活しており、そのためボーダーを観念的かつ固定的に捉えている。しかし、ボーダーは固定されたものではなく、歴史的に変遷するものである。
例えば、日本とロシア(帝政ロシア、ソビエト連邦、ロシア連邦)のボーダーの変遷について見てみよう。1855年に江戸幕府と帝政ロシアが締結した「日本国魯西亜国通好条約」(下田条約)によって、択捉島とウルップ島との間に国境が画定され、樺太(サハリン)については国境を画さずに「これまでの仕来り通り」(雑居地)とされた。明治になって、1875年の「樺太・千島交換条約」(サンクトペテルブルグ条約)によって、樺太を放棄する代わりに千島列島の全てを取得した。日露戦争では、日本の勝利がほぼ確定してから、戦後交渉を有利に展開するために日本は樺太全土を占領し、1905年の「ポーツマス講和条約」で北緯50度以南の樺太を獲得した。
ところが、1945年8月9日にソ連は「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、満州、南樺太、千島に侵攻を開始した。北方四島について見れば、日本がポツダム宣言を受諾した14日の後、28日に択捉島を、9月1日に国後島と色丹島を占領し、さらに、日本が米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印した9月2日の後、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した(南樺太の占領については後述する)。
1951年の「サンフランシスコ講和条約」で、日本は千島列島ならび南樺太に対する全ての権利を放棄した(当時のソ連はこの条約に調印していない)。このように、ボーダーが大きく変遷してきたし、その一部は現在も確定していない。
こうした歴史の中で、北海道には交流と対立の複雑な歴史が生まれ、日本人やロシア人だけでなくアイヌなどの北方少数民族を含めた多くの人々の生活があり、また、ドラマがあった。現在、それらは、多様なボーダーツーリズムの魅力を提供している。
今回は、そうした魅力の一つとして、日本が南樺太を支配していた「日本統治時代」(1905年~45年)の歴史的風景を求め、当時の日ソ国境線であった北緯50度線まで旅をした。
札幌からユジノサハリンスクへ
物見遊山的な従来の観光とは異なり、ボーダーツーリズムでは境界地域における「比較」「学び」「体験」というスタディツアー的な要素が重要となる。従来は、稚内とサハリンを観光することで、容易に「比較」「学び」「体験」することができた。しかし、稚内港・コルサコフ港の定期フェリーを運行していた日本の会社が撤退し、2015年度を最後に休止していたので、新千歳空港・ユジノサハリンスク空港の定期便を利用せざるを得ず、稚内を観光することができなかった(その後の航路の復活については、吉村慎司「サハリン航路復活」〔季刊『北方圏』177号、2016年〕42-44頁参照)。
そのため、8月27日の渡航前に、札幌市の道庁赤レンガ(北海道庁旧本庁舎)2階にある「樺太資料館」に立ち寄り、サハリンの歴史や文化、太平洋戦争や引揚などに関する展示を前に、北海道大学の井澗裕研究員の解説を聞いた(参考:井澗裕編著『稚内・北航路-サハリンへのゲートウェイ』国境地域研究センター、2016年など)。
「井澗裕氏の解説で、北海道庁旧本庁舎2階の「樺太資料館」で事前勉強をした。」
「ここには樺太の歴史や文化、戦闘や引揚の様子、その後の交流に関する展示がある。」
その後、各自で新千歳空港へ移動し、19時発のオーロラ航空(旧サハリン航空)でユジノサハリンスク(旧豊原)に向けて出発した。1994年に函館・ユジノサハリンスク線が開設されて以来、ロシア製のプロペラ機アントノフ24が就航しており、2000年にはそれに搭乗したことがある。2001年に新千歳・ユジノサハリンスク線が開設された当初はボーイング737が使用され、2007年にはそれに搭乗した。現在はプロペラ機ながら全日空も使用しているカナダ製ボンバルディアに変わっていた。
予定の飛行時間80分より幾分早くユジノサハリンスク空港に到着して入国審査をすませた。近年のサハリン渡航は、フェリーを利用していたいので、数年ぶりの空港であった。以前より小ぎれいになったとの印象を持った。
ドリンスク(旧落合)周辺
翌28日の朝9時、一行24名(男性17名、女性7名)は専用バスでホテルを出発した。現地ガイドのエレーナさん、稚内在住の写真家斉藤マサヨシ氏が同行し、北都観光の米田正博氏が添乗した。エレーナさんは、交流団や墓参団などのガイドを務めてきたベテランで、流ちょうな日本語を話すだけでなく、大変な勉強家で豊富な知識を有する。また、斉藤氏は、サハリンの自然と人々の営み、そして日本統治時代の風景を追ってサハリン各地を回り、現地の人さえ知らない深いサハリンを知っている(参考:HPはhttp://westen.jp/)。また、長年にわたりサハリン旅行を企画・実施してきた経験を持つ米田氏には、最初の稚内・サハリンのボーダーツーリズムでもお世話になっている。この3人(+筆者)は、スタディツアー的な要素を有するボーダーツーリズムとって不可欠な存在である。
まず、ユジノサハリンスクの北方43キロに位置するドリンスク(旧落合)でかつての製紙工場跡を遠望し、さらにオホーツク海に面するスタロドゥプスコエ(旧栄浜)で宮沢賢治の足跡を追った。賢治は、1923年の夏、花巻から二つの海峡を渡って、当時日本最北の駅であった栄浜駅にたどり着いた。前年秋に亡くなった妹トシを思いながらの傷心旅行であった。この旅の途中で『銀河鉄道の夜』などの作品で使用される多くのアイディアを得たと言われている。しかし、かつての鉄道は1990年の初めに廃線となっており、既に建物は完全に消滅し、線路も撤去されてしまった。今は、ガイドの案内がなければ、駅の痕跡を探すのも困難である。それにもかかわらず、多くの日本人がここを訪れるため、地元では案内板を建てる計画があるそうだ。
「王子製紙落合工場跡の廃墟を道路から遠望する。」
「かつて宮沢賢治が訪れた栄浜駅の痕跡を探す。」
ウズモリエ(旧白浦)へ
さらに北上してウズモリエ(旧白浦)の海岸近くで、白浦小学校(樺太公立白浦国民学校)と白浦神社の跡を訪ねた。ここでも建物などは完全に消滅しており、石造りの奉安殿と鳥居だけが雑草の中にひっそりと遺っていた。
ウズモリエ駅の駅前には、小さな売店の他、タラバガニやハチミツを売る露店がならんでいた。参加者たちは、大きなカニの写真を撮らせてもらったり、ハチミツやアイスクリームを買ったりして、地元の人たちとほんの少しの触れあいをすることができたようだ。田舎はどこも善い人が多い。ここウズモリエも例外ではなかった。
「ウズモリエ(旧白浦)の白浦神社跡があった丘の中腹に鳥居だけが遺っていた。」
「ウズモリエ駅前には大きなカニや地元のハチミツを売る露天が並んでいた。」
マカロフ(旧知取)へ
日本統治時代には知取(しるとる)と呼ばれていたマカロフに到着。現在は人口約6,500人の町だが、日本統治時代は富士製紙(後に王子製紙)の工場と知取炭鉱があり、1941年頃には約18,000人が暮らしていた。ツアーの中に、終戦の前後、この町の小学校(樺太公立知取第一国民学校)に通っていたというW氏がいて、当時の知取の生活、そして、ソ連占領下の樺太や引き揚げの様子などについて、いろいろと聞くことができた。
W氏の話では、1943年11月24日、その小学校の授業中に火災があり、男子学生23名が犠牲になったそうだ。近年、旧知取出身者たちが小学校跡の一角に慰霊碑を建立した。皆で一緒にその慰霊碑を訪ね、事件の話を詳しく聞かせてもらい、献花をした。
「かつて知取神社があった丘から旧王子製紙工場(奥の煙突周辺)を遠望する。」
「1943年に起きた小学校の火災事故の慰霊碑の前で当時の話を聞き、皆で献花した。」
ユジノサハリンスクから北へ288キロほど移動して、この日の宿泊地であるポロナイ川の河口に位置するポロナイスクに到着した。日本統治時代には日本最北の「町」であり、敷香(しすか)と呼ばれていた。当時は国境に近い北部の中心都市で1941年頃の人口は約30,000人であったが、現在は約15,000人で、1972年から北見市と姉妹関係にある。
ポロナイスク(旧敷香)へ
ここで最初に案内されたのは、きれいに清掃された小さな公園内にある第48代横綱・大鵬(納谷幸喜)の銅像だった。大鵬は、ロシア革命後に樺太へ亡命したウクライナ人(コサック騎兵将校)と日本人女性との三男として1940年5月29日にこの地で生まれた。この公園は生家があったとされる場所だという。彼が5歳の時にソ連軍が侵攻してきたので、母親と最後の引揚船「小笠原丸」に乗船したが、母親の体調不良により稚内で下船せざるを得なかった。その後、小樽港を目指した小笠原丸は、留萌沖で国籍不明の潜水艦の攻撃を受けて沈没して乗員乗客638名が死亡した(三船殉難事件)。大鵬死去の翌2014年に、その功績をたたえて、この銅像(高さ2.3メートル)が建立された。ガイドさんの話では、ポロナイスク市民も大鵬を敬愛しており、その除幕式は市の創建145周年祝賀行事の一環として行われたそうだ。そういえば、東京のウクライナ大使館にも大鵬の等身大の写真が飾られていると聞いたことがある。
翌朝は、ポロナイ川の河口へ行った。今も昔も、対岸の中州に通じる橋はない。そのため、2隻の小さな渡し船(自動車2台を積載できる)があり、それで対岸に渡った。ここは「オタスの杜」と呼ばれ、昭和初期に日本政府が指定(強制)した北方少数民族の居住地であった。ウィルタ(オロッコ)、ニヴフ(ギリヤーク)、ウリチ(ナーニ)、エヴェンキ、サハ(ヤクート)などの5民族が暮らし、また、学校(土人教育所)が設置され日本語教育(皇民化教育)がなされた。ここでは、1997年8月15日に遺族会によって建立された「サハリン少数民族戦没者慰霊碑」を訪ねた。当時の日本軍は、ソ連軍の南樺太侵攻に備えて、国境を自由に行き来できて、言葉や地理にも明るい彼らを招集・徴用して諜報活動や戦闘に利用した。その多くは戦死し、生き残った者は日本人将兵と共にシベリヤの強制収容所へ送られた。しかし、戦後、日本政府は日本国籍を有しない彼らに対して、なんの謝罪も補償もしなかった。ウィルタ語、ニヴフ語、ロシア語と日本語で「安らかに眠れ」と刻まれた碑の前で、そうした負の歴史を学んだ。ソ連時代になって少数民族とロシア人との混血が進んだが、彼らの多くがこの地を故郷とし、毎年開催される少数民族の祭りの会場でもあった(最近、祭り会場が町の中心部に移ったらしい)。
町を出る前に、旧王子製紙敷香工場の廃墟に立ち寄り、その敷地内を歩くことができた。想像以上に大きな工場で、かなり見応えがあった。現在、日本統治時代に建設され、今は廃墟となっている9つの製紙工場跡を観光資源(産業遺産)にしようという動きがある。
「ポロナイスク市内の良く整備された公園内に建つ横綱大鵬の銅像」
「ポロナイスク駅に隣接する操車場にかつての敷香駅のホーム跡や防空壕が遺っていた。」
「オタスの杜に建つ『サハリン少数民族戦没者慰霊碑』」
「旧王子製紙敷香工場の廃墟。右は日本時代、左の白い部分はソ連時代の建物である。」
北緯50度付近
我々を乗せた専用バスは、ポロナイスクを出て北へ向かった。ポロナイスクから約73キロでスミルヌイフ(旧気屯)であり、さらに約12キロでポペジノ(旧古屯)、そして約15キロで日本軍の最前線であったハンダサ(旧半田沢)である。日本統治時代の終わり頃に、敷香から北へ軍用道路と軍用鉄道が整備され、1943年に気屯駅が、1944年に古屯駅が開設された。軍用鉄道であったため、時刻表に乗らない駅であったが、開設当時は日本最北の駅であった。
道路はツンドラの森林地帯をほぼ一直線に走る未舗装道路のみ。おそらく、日本軍が整備した軍用道路(中央軍道)であったと思われる。現在は、あちこちで道路工事がなされていた。その道路脇にソ連時代に建てられた「ソ連軍戦勝の碑(領土奪回の碑)」があった。南を指し示す大きな白い矢印のオブジェで、「ソ連赤軍は古来ロシアの地であった南サハリンを解放した」と記されている。赤い50の文字もあるが、これは旧国境・北緯50度線上に建てられていることを示している。その周囲は、きれに整備・清掃されていた。
この碑の脇を通り抜けて裏の小道を西へ40メートルほど行くと、かつて国境標石が設置されていた台座を、雑木林の中に見つけることができる。思ったより小ぶりで一部は損壊し、荒れるがまま放置されていた。
1938年1月3日に、女優の岡田嘉子と演出家の杉本良一が国境を越えてソ連に亡命(駆け落ち)した事件の舞台でもある。二人にはスパイ容疑がかけられ、引き離されて厳しい取り調べを受けた。その後、モスクワで有罪判決を受け、岡田には10年の刑が言い渡され、杉本は銃殺刑になった。
「北緯50度線上に建つ『ソ連軍戦勝の碑』」
「同じく北緯50度戦上に遺る国境標石の台座」
国境標石
日露戦争後、1905年のポーツマス条約で北緯50度線が新しい国境線となり、日露の陸軍国境策定委員会による国境画定作業が開始された。具体的には、天文観測に従い天第1号から天第4号まで4基の国境標石が設置され(「天」は天文観測で設置されたことを表わす)、その間には6キロごとに17基の中間標石が、さらに19ヶ所に木標が建てられた。このラインに沿って、樹木が幅18メートルで伐採され、溝が掘られ、東西約132キロに及ぶ一直線の国境線(ボーダー)が築かれた。
特に重要な4基の国境標石は、高さが64センチ程度で将棋の駒の形をしていた。最も東のオホーツク海側の鳴海に設置された天第1号はサハリン州郷土博物館に、天第2号は根室市歴史と自然の資料館に、それぞれ収蔵されている。今回のツアーで台座を確認した天第3号の行方は不明である(日本統治時代に作られたレプリカがサハリン州郷土博物館にある)。最も西の間宮海峡側に設置された天第4号は、北海道新聞相原秀起記者の取材によれば、ロシア人(私人)が密かに所有しているらしい。
「サハリン州郷土博物館所蔵の「天第1号」標石の南面には菊花章と日本語が刻まれている。」
「その北面にはロマノフ王朝の紋章(双頭の鷲)とロシア語が刻まれている。」
南樺太での戦闘と慰霊碑
1913年に樺太守備隊が廃止されて以来、国境地帯は軽武装の国境警察隊によって守られていた。その後、1939年に樺太混成旅団が創設され、対米戦に備えて兵力はしだいに増強されていった。1945年2月には、本土決戦を意識して第88師団に再編された。しかし、軍の編成・配備について、樺太大泊出身の工藤信彦氏は「樺太がひたすら、北海道防衛の防波堤であったことは歴然としている」と書いている(工藤信彦『国境幻想』「日本の国境・いかにこの『呪縛』を解くか」〔北大出版会、2010年〕所収)。60万人の日本人が暮らしていた沖縄同様、40万人が暮らす南樺太も本土決戦の時間稼ぎのための捨て石と考えられていたのかもしれない。
1945年8月9日に「日ソ中立条約」を一方的に破棄して対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太に対する侵攻作戦を開始した。第79狙撃師団と第214戦車旅団を基幹とするソ連の第1梯団が国境線を突破した時には、最前線の半田沢には日本軍の歩兵2個小隊と国境警察隊の約100名のみが配置されていた。圧倒的な兵力差にもかかわらず、一昼夜にわたり陣地を守り抜き、翌12日にほぼ全滅した。その後も古屯北西の八方山付近に布陣した日本軍との間で激しい戦闘が行われた。ポツダム宣言を受諾した後も戦闘は続き、20日のソ連軍の真岡上陸作戦では、無差別攻撃によって多くの住民が犠牲になり、また、真岡郵便局では電話交換手の自決事件も起きた。次いで22日には、豊原が空襲を受けたが、同日に停戦協定が成立し、翌23日には豊原が占領された。そして、25日の大泊占領をもって南樺太における戦闘はほぼ終了した。それまでに1,062人が戦死し、ソ連軍もそれ以上の戦死者を出した(日本側の推定)。
また、この南樺太の戦闘に一般市民も巻き込まれ、また、ソ連軍の暴行・略奪もあって、本当に大きな犠牲を払った。一般市民の犠牲は死者だけでも、疎開船撃沈の約1,708名を含めて4,064人であった(樺太資料室の展示)。
現在、50度線付近には日本軍のトーチ跡が残る他、「ソ連戦争犠牲者の碑」「日ソ平和友好の碑」「樺太・千島戦没者慰霊碑」など建てられている。
「道路脇に遺る日本軍のトーチカ跡」
「ソ連軍兵士の慰霊碑」
「『樺太・千島戦没者慰霊碑』の全景」
「『樺太・千島戦没者慰霊碑』での献花」
ソ連に占領された南樺太
終戦当時に南樺太にいた約40万人の内、緊急疎開などで脱出できたのは約10万人。残りの30万人は、製紙工場や発電所などを稼働させ、従来の生産体制を維持するため帰還を禁止された。ソ連政府は、ドイツとの戦争で壊滅的な打撃を受けたウクライナなどから、緊急にロシア人をサハリンへ移民させた。その結果、住宅不足から日本人とロシア人の共同生活をしなければならないという事態も生じた(参考:エレーナ・サヴェーリエヴァ『日本領樺太・千島からソ連領サハリン州へ』成文社、2015年)。
1946年12月になって米国とソ連の合意による帰還が開始され、帰還事業は49年7月まで続いた。しかし、帰還できたのは日本人だけで、韓国・朝鮮人は残留せざるを得ず、また、彼らと結婚した日本人女性も夫と離別しなければ帰還できなかった。
その後、1956年に日ソ共同宣言が出されて、日本人妻を持つ韓国・朝鮮人の引き揚げが可能となった。この時、日本国籍を有する妻と子供だけは日本政府から帰還手当が支給されたが、韓国・朝鮮人の夫には手当はもちろん移動中の弁当も支給されなかったという(参考:高木健一『サハリンと日本の戦後責任』凱風社、1990年など)。
夜行列車
ユジノサハリンスクから北緯50度線まで約400キロを専用バスで移動してきたが、帰りはスミルヌイフからユジノサハリンスクまで363キロを夜行寝台列車604号で帰った。そもそもサハリンにおける鉄道は、日露戦争後に南サハリン(南樺太)を取得した日本が、1906年にコルサコフからユジノサハリンスク(当時はウラジミーロフカ)までの37.7キロメートルに、ゲージ600ミリの陸軍軽便鉄道を敷設したことに始まる。その後、内地と同じ規格の1067ミリ(狭軌)に改修され、日本統治時代の南樺太の発展と共に延長されていった。所管も陸軍から樺太庁鉄道へ、さらに鉄道省樺太鉄道局が発足して国鉄に移った。
敗戦後はソ連軍に接収された。しかし、ソ連の規格は1520ミリ(広軌)であり、大陸のワニノ港とサハリンのホルムスク(旧真岡)港を結ぶ鉄道連絡船で輸送されてきたソ連規格の貨車は、ホルムスクで台車交換を行う必要がある。現在、間宮海峡に橋かトンネルを建設して大陸とサハリンを結ぶ計画があり、サハリン内の鉄道も、いずれは全て広軌に改修されるであろう。実際に、マカロフで見た鉄路は、いつでも広軌に換装できるような枕木になっていた(次頁の写真参照)。
日本の鉄道のプラットホームは高床式で、ホームと列車の乗降口との高低差はないが、サハリンの場合は階段をよじ登らなければならない。荷物を抱えて夜行寝台列車によじ登り(乗り込み)、4名用の寝台コンパートメントに乗り込んだ。これを2名で使うというのであるから贅沢ではあるが、問題は車内での飲酒を禁止する規則だ。車掌ではなく、拳銃を携帯して巡回していた2名の警察官に2度も注意を受けた。しかたなく、ミネラルウォーターのボトルにウオッカを入れ、皆で宴会を続けた。
翌朝5時、突然、大音量の音楽が車内に流れ、たたき起こされた。到着まで1時間もあるのだが、これが起床の合図らしい。早朝のユジノサハリンスク駅に到着して驚いたのは、昨夜にスミルヌイフ駅で分かれた運転手とバスが、今朝はユジノサハリンスク駅前に迎えに来ていたことだった。昼間は道路事情の悪いサハリンでバスを疾駆させ、夜も一人で長距離を移動してきた運転手さんに感謝した。
「各自に配られた鉄道切符」
「広軌の線路を敷設するスペース(左)がある枕木」
「4名用の寝台コンパートメントの内部」
「絨毯が敷かれ、壁にコンセントがある車内通路」
プリゴロドノヘ(深海村女麗)へ
ホテルに入って一休みしてから、再び専用バスで液化天然ガス(LNG)の工場があるプリコドロノヘ(旧深海村女麗)に向かった。サハリン北東の大陸棚で行われている石油・天然ガス開発を「サハリンプロジェクト」と呼ぶが、さらに鉱区別に1~6のプロジェクトに分かれており、その中の「サハリン2」の関連施設がプリゴロドノヘにある。北東の海底から産出された石油・天然ガスが、1000キロメートルものパイプラインで輸送される。天然ガスはここで液化され、それぞれタンカーで日本や中国や韓国などへ積み出されている。サハリンの経済発展にとって、このサハリンプロジェクト関連の経済効果(直接収入や雇用の確保など)は重要である。
この工場と桟橋を見下ろすことができる高台に、日本統治時代に「日本軍上陸記念碑」と「忠恩塔」が建てられたが、現在は無残にもそれらは倒されたまま放置されている(写真参照)。それが、かえって複雑なボーダーの歴史を表しているとも言えよう。
工場の沖に積出桟橋とタンカーが見えるが、それは大型タンカーが接岸可能な水深があることを示している(写真参照)。日露戦争の勝利をほぼ手中にした日本軍が、1905年7月7日にこの地に上陸作戦を行ったのも、この水深があったからある。
こうして、かつてのボーダー(北緯50度)と新旧のサハリンを訪ね、日本統治時代の南樺太の面影を追った旅は終わった。
「プリゴロドノヘの液化天然ガス工場」
「工場から伸びる積出桟橋に接岸するタンカー」
「上陸記念碑の台座の向こうに積み込み中のLNGタンカーを見ることができる。」
「倒されたままの上陸記念碑には「遠征軍上陸記念碑」と刻まれていた。」
アジアの経済成長と北海道の「観光立国」
~世界経済のグローバル化と外国人観光客6000万人時代の北海道の観光~
公益社団法人北海道国際交流・協力総合センター調査研究部
上席研究員 高田喜博
*本稿は季刊北方圏177号56頁掲載記事の拡大版(2016年10月17日版)である。
はじめに
「観光立国懇談会」や「観光立国推進法」など、「観光立国」という言葉は目新しいものではない。しかし、最近は「インバウンド」の拡大や「爆買」などと共に、「観光立国」というキーワードを目にする機会が多くなった。昨年はデービット・アトキンソンの『新・観光立国論』(2015年、東洋経済新聞社)、寺島実郎の『新観光立国論』(2015年、NHK出版)が、あいついで出版されている。そこで本稿では「観光立国」に関する国の政策や北海道の施策を概観すると共に、内外の統計、関連する用語、資料などを確認しつつ、世界経済のグローバル化の流れの中で北海道の観光立国について考えてみたい。
(なお、国内観光客の拡大も重要な課題ではあるが、本稿では主に外国人観光客について考える。また、具体的な現場の取り組みなどについては、季刊北方圏に連載されている永山茂『北海道観光の現場から』などを参照。)
これまでの日本の「観光立国」
2001年度、日本人海外旅行者数が年間1千622万人であったのに対し、訪日外国人旅行者数は年間477万人で、旅行収支[1]は3兆6千億円の赤字であった。こうした状況を受けて、小泉純一郎内閣(当時)は、2003年1月に「観光立国懇談会」[2]を開催し、同年4月には外国人旅行者の訪日を促進する「ビジット・ジャパン・キャンペーン(訪日プロモーション事業)」を開始した。また、2006年12月に「観光立国推進基本法」[3]が制定され、2008年に国土交通省の外局として観光庁が設置された。
当時は2010年までに訪日外国人を年間1千万人にするという当初目標が設定されたが、2007年の世界金融危機とその後の世界的な不況、2011年の東日本大震災と原発事故などに影響されて苦戦した。しかし、2013年には年間1千36万人に達し、その後は大きく拡大を続け、2014年は1千341万人、2015年は1千974万人と2年間で約2倍となった。これにともなって、2014年の旅行収支も55年ぶりに黒字に転じ、2015年度は1千31億円の黒字となった。
また、UNWTO(国連世界観光機関)[4]による国際観光客到着数(international tourist arrivals)の世界ランキングでも日本は、2013年に27位、2014年に22位、2015年に16位と順位を上げてきた。
最近の日本の「観光立国」
現在、安倍晋三内閣は、観光を成長戦略の柱の一つとし、かつ、地方創生の切り札と位置づけている。そして今年(2016年)6月に閣議決定したGDP600兆円に向けた成長戦略「日本再興戦略2016」[5]の中で、訪日外国人の人数と消費額の新しい目標として、2020年に4千万人と8兆円、2030年に6千万人と15兆円という大きな数値を掲げた。
2020年の数字を推計することは困難なので、少し乱暴ではあるが前出のUNWTOの2015年のランキングに当てはめてみると4千万人は第6位、6千万人は第4位あたりに位置する(ただし、UNWTOは2010~2030年までの間に毎年平均で3.3%増加すると予測しており、実際に順位はもっと低位となるであろう)。
北海道の「観光立国」
観光立国推進基本法が制定された2006年に前後して「北海道観光戦略会議」が開催され、官民一体となって北海道の観光について議論した結果、観光庁が設置された2008年に「北海道観光振興機構」[6]が発足するなど、北海道は国の政策と足並みをそろえるように観光に力を注いできた。そして、昨年10月に道が策定した「北海道創生総合戦略」[7]における、輝く「アジアのHOKKAIDO」創造プロジェクトの中に、「観光受入体制の飛躍的拡充」が掲げられ、また、今年3月に閣議決定された8期目となる「北海道総合開発計画」[8]においても、世界に目を向けた産業の振興の中に「世界水準の観光地の形成」が盛り込まれている。また、観光に力を入れている道内各市町村も独自の観光施策を策定しており、日本の観光政策は国、都道府県、市町村と重層的かつ広範囲に構築されているのが特徴である。他方、縦および横の連携が必ずしも十分ではない、それぞれがバラバラに観光に取り組んでいるとの指摘もなされている。
ところで、道内客、道外客、外国人を含めた数字(観光入込客数)を見ると、北海道の観光入込客数は、1999年に5千149万人を記録するが、その後は減少して2009年には4千682万人まで落ち込んだ。2010年より観光庁が定めた共通基準が導入され、それ以前の数字と単純に比較できないが、新しい基準で推計された2010年の5千127万人に対して、2011年は東日本大震災の影響で4千612万人まで激減した。その後、徐々に回復して2015年には5千477万人となった。内訳を見ると、2011年は道内客4千068万人(構成比88.2%)、道外客487万人(同10.6%)、外国人57万人(同1.2%)なのに対し、2015年は道内客4千693万人(構成比85.7%)、道外客577万人(同10.5%)、外国人208万人(同3.8%)となっている。伸び率で比較すると総数で+1.9%、道内客は+0.5%、道外客は+1.4%、外国人は+35.0%となり、外国人観光客の増加が著しいのが分かる。
こうした外国人観光客の増大と政府の新しい目標値の設置に応じて、北海道も、来道する外国人観光客数の目標値を2020年に500万人(従来は300万人)に上方修正することを検討中であるとの報道がなされた(北海道新聞2016年8月5日など)。また、道内主要空港の民間委託の議論の中で、空港民営化懇談会は菅義偉官房長官に2030年に来道する外国人観光客を850万人まで増やすことを柱とする要望書を手渡したとの報道もある(北海道新聞2016年10月17日)。
北海道の外国人観光客
2015年度「北海道観光入込客数調査報告書」[9]から北海道の外国人観光客(訪日外国人来道者数)を国・地域別に見ると、中国55万4300人(構成比26.6%)、台湾54万7800人(同26.3%)、韓国29万9500人(同14.4%)、香港16万5100人(同7.9%)、タイ15万5200人(同7.5%)、マレーシア76,300人(同3.7%)、シンガポール4万9800人(同2.5%)を中心にアジア全体で184万8000人(同88.8%)となり、アジアが他地域を圧倒する。
これを『観光白書』[10]の「訪日外国人の内訳2015年」の数字と比較すると、中国499万人(構成比25.3%)、韓国400万人(同20.3%)、台湾368万人(同18.6%)、香港152万人(同7.7%)、タイ80万人(同4%)、シンガポール31万人(1.6%)、マレーシア31万(同1.5%)でアジア全体は1637万人(同82.9%)となり、全国に比べ北海道はよりアジアに依存し、特に台湾、タイ、マレーシア、シンガポールの比率が高いことが分かる。これは、これらの地域にはない景観、雪や流氷などが魅力となっているからだといえよう。
アジアに依存する北海道観光
こうしたアジア依存の傾向は、北海道の観光にとって良いのだろうか、悪いのだろうか。仮に、中国の経済成長率が5%程度になったとしても米国をはじめとする先進国の2倍以上の成長率であり、これからは中国を中心とする大中華圏(香港、台湾、シンガポールなど)がアジアの成長センターになると予想されることから、既に北海道の観光がそうした地域に向いている(アジアの人気を得ている)ことは、北海道の優位性に他ならないと考える。また、季節変動(夏と冬の格差)への対応が長年の課題となってきた北海道にとって、雪や流氷を求めて冬にやって来るアジアからの観光客の存在は重要である。
将来展望としては、約10年後はインドが中国と並ぶ世界経済の「成長の柱」となるだろう。さらに、その先(西)には、ASEANを凌ぐ市場と期待されている西アジア(中東)・北アフリカ地域(MENA)[11]がある。
北海道の観光戦略を考えると、東アジア、ASEAN、南アジア(インド)、MENAというルートに沿って、それらの地域の経済発展に応じた市場開発が有効なのではないだろうか。以下で詳しく見てみよう。
世界経済成長予測と北海道の観光
世界経済成長予測との関係で北海道の観光を考えてみよう。今年10月に発表されたIMF(国際通貨基金)の「世界経済見通し」[12]によれば、2016年の世界の経済成長率は3.1%で、そのうち先進国(36カ国)は1.6%、日本は0.5%と予測されている。これに対して、新興・途上国(153カ国)の経済成長率は全体で4.2%であり、これを支えているのがアジアの6.5%の経済成長である。その中身を見ると、インド7.6%、中国6.6%、ASEAN5カ国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、ベトナム)4.8%であり、当面は、これらの国々が世界経済の成長を支えることになるだろう。
また、米国国家情報会議による『2030年世界はこう変わる』[13]によると、中国の経済成長率は今後2020年にむけて年率5%程度に落ち着くのに対して、2025年までにインドが中国と並ぶ世界経済の「成長の柱」となり、2025年の中国とインドの経済力を合わせると、その世界経済への貢献度は米国とユーロ圏を合わせた規模の約2倍にあたるという見通しを示している。
輸出関連の製造業の集積が少ない北海道としては、「食」と「観光」が地域経済の持続的発展の鍵となるが、こうした予測を前提にすると、そのターゲットは成長するアジアとなるのは当然だといえよう。そして、前述したように当面は東アジア(中国・韓国・台湾)とASEANであり、その後、南アジア(インド)、西アジア・北アフリカ(MENA)というルートに沿って、それらの地域の経済発展に応じた市場拡大を図ると共に、食と観光を関連させる施策が重要となる。
UNWTOが示す世界観光の動向
先に紹介したUNWTOが発行する“Tourism Highlights (ツーリズム・ハイライト)2016”に記載された国際観光の経済効果について紹介しておこう。
観光は、過去60年間にわたり拡大と多様化を続け、世界最大かつ最速の成長を見せる経済部門の一つであり、観光は時折の予期しない事態の発生にも関わらず、実際に途切れることなく成長を続けた。
世界全体の国際観光客到着総数は、1950年の2,500万人から、1980年には2億7,800万人、2000年には6億7,400万人、2015年には11億8,600万人と増加し、2030年には18億人に達すると予測されている。また、目的地における国際観光収入も1950年の20億米ドルから、1980年には1,040億米ドル、2000年には4,950億米ドル、そして2015年には1兆2,600億米ドルと急増している。
国際訪問客による支出は、受け入れ国においては輸出となり、訪問者の居住する国にとっては輸入と考えることができ、多くの国にとってインバウンド観光は重要な外貨獲得源であり、雇用および更なる開発機会を創出し経済に重要な貢献をもたらす。こうした観光の経済効果を考えると、観光に関する国際競争は、いっそう激しくなると予想される。
日本経済の低迷と観光
それにしても、日本経済の低迷は著しい。先に説明したIMFの「世界経済見通し」で、1月に発表された数字と比較すると、先進国関連の数字のほとんどが0.2ポイントの下方修正であったのに対して、日本だけは0.5ポイントも下方修正された。低迷する日本としては、アジアの経済成長を取り込みたいと考えるのは当然である。他方、日本の貿易収支は5年連続で赤字であり、その意味でも黒字に転換した観光収支の拡大は重要な政策課題である。それらに今日の積極的な観光政策の背景があるといえよう。
まとめ
観光に関する国際競争に打ち勝つための「戦略」と「戦術」に基づいたハード・ソフト両面での条件整備は不可欠であるが、世界経済と世界観光を展望する限り、先に挙げた2020年に訪日外国人観光客を2000万人、来道する外国人観光客を500万人とする目標は十分に達成可能な数字である。しかし、インバウンドは数ではなく中身(観光消費の額と中身)であり、消費を拡大する施策(地元にお金が落ちる仕組みづくり)が重要となる。実際に、本州資本のホテルや家電量販店における旺盛な消費に比較して、地元資本での消費は限られている。一時的なブームに過ぎない「爆買い」に頼ることなく、地産地消や体験観光などを活用して地元での消費を促すことが重要となる。
観光客数の目標設定はインフラなどの整備のためには必要だが、知床などに多くの観光客やバスが押し寄せてしまっては、自然を保全することは困難である。また、十分な収益を期待できない格安ツアーには限界がある。観光客と観光とは関係がない一般市民との摩擦やトラブルも回避しなければならない。北海道における「観光立国」の実現のためには、消費額の目標値やそれを達成するための統計がより重要であり、また、豊かな北海道を実現するための中長期の展望あるいはグランドデザインも不可欠だといえよう。
以上は、筆者の個人的な意見であり、本稿に関するご質問・ご意見は筆者に直接お寄せ下さい(takada@hiecc.or.jp)。また、拙稿「アジア・ユーラシア地域の発展の中で考える北海道の観光」(札幌メディア研究所「建設の目」)、「北海道経済国際化の課題:観光立国北海道とロシア極東との地域連携」(都市計画290号、2011年4月)59頁、「北海道のボーダーツーリズムの展開」(月刊地理61号、2016年9月)62頁もご参照ください。
[1]旅行収支とは、日本人旅行者の海外での消費を「支出」、訪日外国人の日本での消費を「収入」とし、収入から支出を引いたもの。国際収支の中の貿易・サービス収支の一部。
[4] UNWTO(国連世界観光機関)とは、持続可能で責任ある観光を促進するための国連の専門機関で、世界157ヶ国、6地域及び480以上の賛助会員(民間、学術、観光協会及び地方観光当局)で構成され、観光部門における重要な国際機関として、経済成長の牽引役としての観光を促進し、世界の先進的知識や観光政策の指導及び支援を行っている。
[7] 北海道創世総合戦略については道庁HP
【http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/csr/jinkou/senryaku/senryaku.htm】(2016.10.01)を参照。
[8] 北海道総合開発計画については北海道開発局HP
【http://www.hkd.mlit.go.jp/kanribu/keikaku/keikaku-suishin/pdf/280329keikaku.pdf】(2016.10.01)
[9] 北海道観光入込客数調査報告書については道庁HP
【http://www.pref.hokkaido.lg.jp/kz/kkd/toukei/H27_irikomi_honpen_20160912.pdf】(2016.10.10)
からダウンロードできる。
[11] 中東・北アフリカの20カ国で構成されるこの地域は、中東:Middle Eastと北アフリカ:North Africaの頭文字をとってMENA(ミーナ)と呼ばれ、人口の伸び率、経済規模、経済成長率でASEANを凌ぐ市場と言われ、ポストBRICsとしも注目が集まっている。
[13] 『2030年世界はこう変わる』“GLOBAL TRENDS 2030”は、4年に1度、米国大統領のために作成される世界潮流に関する報告書である。
インドネシア政府招請FAMトリップ現地報告 第1回 (10月5日デンパサール)
ハイエック調査研究部 森内壮夫
インドネシア政府観光担当省庁からの招請を受け、10月5日~10月11日までの7日間FAMトリップに参加することになった。FAMトリップはFamilialization Tripの略でもともとは「下見旅行」などと訳され、観光地などの誘客促進のため、旅行観光事業者を対象に現地視察をしてもらうツアーを指す。
今回の事業は北海道からインドネシアへの観光客数拡大のために、観光事業者などを招待し旅行商品の企画につなげてもらい北海道からの旅行客を増やそうという試みらしい。
筆者は2014年にインドネシアを訪問し、インドネシアから北海道へのインバウンド旅行客の動向についてJTBやJNTOで取材を行った(HOPPOKEN170号40ページ参照)。そのような経緯から今回「インドネシア旅行の魅力を北海道に発信してほしい」という理由で、招待を受けた。
インドネシア政府は1991年からインバウンド客1,000万人を目指しWonderful Indonesia(1991年当時Visit Indonesia)キャンペーンを行ってきた。2015年は9,723,000人と数値目標達成に8万人届かないという状況であったが、2007年の551万人と比較すると大きな伸びを見せているといえよう。2015年のインドネシア政府は、観光セクターがGDPの4㌫を占めていると発表しており日本の2.3㌫(観光庁発表)と比べるとおよそ2倍の数字だ。インドネシア経済にとって観光セクターの比重は大きい。
Wonderful Indonesia ホームページ
http://www.indonesia.travel/landing
2014年の日本からインドネシアの訪問者数は約49万人で内訳はバリ島デンパサールへのレジャー客とジャカルタへのビジネス客がおおよそ半々とのことである。インドネシア観光省は海外旅行デスティネーションとしてのバリ島の再生、インドネシア中央部の観光素材の開発、インドネシアの生活・文化を観光素材として磨き上げることなどに力を注いでいる。当面は日本人旅行客数を50万人に乗せることを目標とし、中長期的視点で日本人旅行者数を100万人にすることが最終的な目標数値ということである。当初このFAM TRIPにはバリ島の行程が含まれていなかったが、直前で修正され3日間バリ島の観光地・観光商品の体験が追加されたのもバリ島の観光素材再発見を目論んでいることからであろう。
【ワンダフルインドネシアのバナー】
今回のおおまかな旅程は
10月5日 移動(札幌→東京(羽田)→シンガポール→バリ・デンパサール)
10月6日 ブノア、ウルワトゥ、ジンバラン(バリ島)
10月7日 ウブドゥ、タナロット(バリ島)
10月8日 タマン、移動(デンパサール→ジョグジャカルタ)
10月9日 ボロブドゥール、コタグデ(ジョグジャカルタ付近)
10月10日 ジョホール(スルタナテ)、ボコ(ジョグジャカルタ付近)
10月11日 移動(ジョグジャカルタ→バリ島)、ウブドゥ
10月12日 移動(バリ・デンパサール→シンガポール→東京(成田)→札幌)
である。
【バリヒルトン・リゾート・インで行われたレセプションで歓迎の挨拶をするとともにファムトリップの説明をするLilis Fauziahインドネシア観光省国際マーケティング部副局長】
数回に分けハイエックのホームページにて写真でファムトリップの様子を伝えていきたい。
インドネシア政府招請FAMトリップ現地報告 第2回 (10月6日バリ島)
ハイエック調査研究部 森内壮夫
※事業主催者からのFAMトリップに関するビジュアルイメージを多用するようとの要望を受け、写真を多く使用しておりますことをご了承ください。
10月6日~8日はバリ島でプログラムが行われた。バリ島はジャカルタがあるジャワ島の東に位置し、人口320万人・面積5,600㌔平米の島。イスラム教を国教とするインドネシアの中で住民の多くがヒンズー教徒で島の随所にヒンズー寺院やヒンズー芸術のモニュメントが設置されているのが特徴。
1920年代から「最後の楽園」と呼ばれ欧米から大勢の旅行者が訪れ始め、現在はインドネシア随一の観光地として世界中から旅行客を集めており、観光業を中心とする3次産業がが域内GDPの6割以上を占めている。日本からもビジネス以外でインドネシアに旅行する7割以上がバリ島を目指すという統計からも人気の高さが窺うことができる。
【世界地図サイト(版権フリー)より転用】
【画像Googleマップ】
バリ島は、欧米先進国からの裕福な白人系観光客が集まると共に、異教徒であるヒンドゥー教圏であることから、米国同時多発テロ以降2度イスラム過激派の標的となり、多数の死傷者を出した。デンパサール空港で到着直後にWiFiがつながると筆者のスマートフォンにも外務省からの「外務省海外安全ホームページ」にリンクするURLが自動的に送られ、危険情報の確認を促された。インドネシアは全域で「その国・地域への渡航滞在に当たって危険を避けるための特別な注意が必要」とされるレベル1に指定されている。バリでの宿泊先のヒルトン・ガーデン・インでも入館時に厳重なセキュリティチェックが行われ物々しい雰囲気を漂わせている。
初日の午前中はデンパサールに近いブノアで観光とマリンスポーツの体験をした。船底がガラスでできた船で透明度の高い海の海底にいる熱帯魚を観察したり、パンをちぎって海上に放りそれを魚が食べる様子を観察。また、ウミガメの産卵地である同地域で、産卵に適さない地で生まれた卵を回収し、一時的に保護し孵化後約1年間人工的に育て、海に放す活動を行いながら亀の展示を行っているTurtle Islandという保護施設を視察した。マリンスポーツの体験もあり、参加者はパラセーリング(http://www.wlbbasuka.com/parasailing.php)やフライ・フィッシュ(http://www.wlbbasuka.com/fly-fish.php)などを体験した。
昼食でジョコウィ大統領もお気に入りだというDirty Duck Dinerでアヒルの半身揚げのような料理を食べた後、ウルワトゥ寺院を訪問。ウルワトゥ寺院はバリ島南部バドゥン半島の南西部にある、バリ・ヒンドゥー教の寺院で、荒波が打ち付ける屹立した断崖絶壁の真上に寺院が位置し、夕暮れ時に夕日が大変美しいことで有名な観光スポット。また夕日をバックに行われるケチャを観劇。ケチャ (kecak) とは、インドネシアのバリ島で行われる男声合唱のことで呪術的な踊り(サンヒャン)にともなう舞踏劇。30人くらいの屈強な男たちが上半身裸で「ケチャケチャケチャケチャ」と雄たけびを上げる中、劇が繰り広げられていた。
ケチャの動画(You Tube)
Pt.1 https://youtu.be/v0W9cYvCDAw
Pt.2 https://youtu.be/6crD0lZC5Ng
ウルワトゥ寺院を後にし、夕食会場へ。ジンバランという高級ビーチリゾートに案内され、海岸に設置された食事会場でシーフードバーベキューを食しこの日のプログラムは終了した。
インドネシア政府招請FAMトリップ現地報告 第3回 (10月7日バリ島)
ハイエック調査研究部 森内壮夫
※事業主催者からのFAMトリップに関するビジュアルイメージを多用するようとの要望を受け、写真を多く使用しておりますことをご了承ください。
3日目はデンパサールから内陸に50㌖ほど北上したところにあるウブドゥ北部のスパトゥ村に向かった。パワースポットして人気の聖水の湧き出るお寺グヌン・カウイ・スパトゥ寺院や陸稲の棚田が広がる風景などで知られる、比較的通好みの観光スポットだという。村に近づくに連れ細い幹道沿いに民芸品の工房、木工加工場やアートギャラリーが所狭しと立ち並び、海岸沿いの解放感に溢れた空気とはまた別の雰囲気が漂っている。デンパサールからの交通の便が良くないためか狭い道をレンタルスクーターで走り抜ける観光客らしき人たちも目立つ。
本日のアクティビティはスパトゥ村にあるPuri Gangga Resort(プリガンガ・リゾート)でバリの伝統料理・舞踊・音楽の体験。プリ・ガンガリゾートは近くに霊験あらたかなグヌン・カウイ・スパトゥ寺院があり、森の中の静かな環境の中でスピリチュアルな雰囲気を漂わせるリゾート。支配人によるとホテルとしての機能のほかKailashaというレストランやマッサージ、ヨガ教室などのサービスも有名とのことでトリップアドバイザーで4.6の評価を得ているとの説明があった。
ほとんどの料理に共通のサンバル(トウガラシやニンニクやショウガをつぶしたスパイス)が使用されることから、料理教室はサンバルソースを作るところから始まり、レモングラスを串に見立てたバリ風の鶏つくね、バナナの葉で香辛料でマリネした白身魚をくるんでグリルした料理、エビや魚や椰子の若芽が具材のスープの下ごしらえをホテル専属シェフの指導の下行い、出来上がった料理を味わった。参加者からは「どの料理もおいしい」との声があがっていた。最後にホテルのオーナーからバリ料理をマスター(?)したという修了証書の授与式まで行われ、予想以上に本格的な料理教室のアクティビティに参加者からは満足していた様子だった。
料理教室の様子は地元のテレビ局で報じられたとのこと。取材を受けていたコーディネーターのウィディア・須見氏は「北海道でもバリの人気は高いですが、このような様々な観光体験メニューがあることはまだまだ知られていないので、関係業界への周知を進めていきたい」と答えていた。
合間に地元の子供たちがバリ舞踊を披露。バリ舞踊はバリ・ヒンドゥーの儀式や冠婚葬祭の際に演じられる舞踊で各寺院には専属ダンサーがいて、バリ民族にとってバリ舞踊は生活やヒンドゥー教に欠かせないとのこと。近年伝統継承者が減り続け、人材を確保する目的で政府が無償で子供たちに伝統舞踊教室を提供し、今回踊りを披露してくれた子供たちもそのようなプログラムで学んでいる生徒たちとのことだ。
伝統舞踊の動画 https://youtu.be/6rjkLRrhBbo
夕方に海岸に浮かぶ寺院が有名なタナロットを訪問する予定だったが、激しいスコールと交通渋滞が心配とのことから、その行程は割愛された。
プリガンガ・リゾートのHP http://www.puriganggaresort.com/
インドネシア政府招請FAMトリップ現地報告 第4回 (10月8日)
調査研究部 森内壮夫
※事業主催者からのFAMトリップに関するビジュアルイメージを多用するようとの要望を受け、写真を多く使用しておりますことをご了承ください。
本日の視察先はバリ島・ギャニアール県にあるバリ・サファリ&マリンパーク (Bali Safari & Marine Park)。中華系インドネシア人オーナーがインドネシア政府から70種類の動物を有償でレンタルしながら50ヘクタールの敷地内に屋外展示している民間の施設で、パークの中をサファリ・バスで移動するメインアトラクションが人気だという。絶滅危惧種に指定されているインドネシア固有種であるスマトラタイガーとスマトラ・アジア象が「人間の身勝手な理由によって絶滅の危機に追い込まれている」というストーリー仕立ての寸劇も呼び物となっているようで、子供が多い観覧者に対する自然保護の啓蒙活動の一旦を担っているとのこと。
サファリパーク内にはホテルがあり、朝目を覚まして窓の外に目をやるとキリンが木の芽を食べ、シマウマが草を食んでいるような光景が眺められる仕掛けになっている。子連れの家族に人気があるとのことで、実際視察した当日には欧州からのファミリーが複数宿泊していた。
日本円で5,000円程度の入場料は高価に感じたが、敷地も広く、アトラクションも豊富で動物好きなファミリーであれば一日中滞在しても飽きないかもしれない。実際、広い園内はどこに行っても子連れの家族や課外授業の小学生であふれかえっており非常に人気の高い観光地だということを知ることができた。現在の動物園は種の保存の役割を担う側面を併せ持つことも多いが、当施設も多くの研究者を雇い入れ希少種の人工繁殖にも成功しているということだ。
以下、園内で観察した動物を中心に写真を掲載する。
車のガラス越しにではあるが、檻なしの状態で至近に見る動物は迫力がある。多くの動物が昼間寝てばかりいるが夜になると活性化する習性を持つ動物も多いため、ナイトサファリパークが大人気とのこと。札幌が誇る円山動物園も素晴らしいが、円山動物園には見られない広大な敷地内に展示され、自然環境に近い条件での動物の活動を間近で観察できる面白さは格別であった。
インドネシア政府招請FAMトリップ現地報告 第5回 (10月9日) ジョグジャカルタ
調査研究部 森内壮夫
※事業主催者からのFAMトリップに関するビジュアルイメージを多用するようとの要望を受け、写真を多く使用しておりますことをご了承ください。
バリ島を後にしてジョグジャカルタ州の州都ジョグ・ジャカルタ市に向かった。ジョグジャカルタ特別州は、インドネシア共和国のジャワ島中部南岸に位置する州で京都府と姉妹県提携をしている地域。ジョグジャカルタ市は面積3,133 km²に340万人以上の人口が住む都市でインドネシアの古都として独自の文化を残す著名な観光地であり、クラトンと呼ばれる王宮には今もスルタンが住んでいることでも有名。また、中部ジャワ州のボロブドゥール寺院(仏教)、プランバナン寺院(ヒンズー教)のふたつの世界遺産は、ジョグジャカルタ市からのアクセスが一般的であるため多くの観光客でにぎわう古都だ。
【地図:Google より転用】
9日のメインは世界遺産のブロブドゥール寺院の見学。世界百科事典の説明を借りれば「ボロブドゥールはインドネシアのジャワ島中部,ジョクジャカルタの北西約40㎞,ケドゥ盆地にある大乗仏教の世界的な石造遺跡。750年ころから850年ころにかけてこの地方に仏教・ヒンズー教文化がもっとも栄えた時代に,シャイレンドラ王朝(唐代の史書にみえる訶陵)によって建設された。自然の丘の上に盛土をし,総量が5万5000㎥にもなる,厚さ20~30cmの安山岩の切石を10層内外積み上げてできている。120m四方の基壇の上には6層の方形段と3層の円段がのり,そして最上層に中心仏塔をのせて,全体の高さは42mにおよぶ」とのこと。ジョグジャカルタからバスで移動し、遺跡に近づくにつれ熱帯雨林の合間から遺跡最上部の仏塔が見えてきて、近づくにしたがって全容を現す。
10時に到着した時にはすでに地元の小中学生と思われる一行などで遺跡は溢れかえっており、頂上のストゥーパへ向かう階段に長い列を作っていた。
「偶像崇拝を認めないイスラム教徒が多くの仏像の頭部を破壊してきた」、「仏陀解脱のストーリーが展開される大変美しいレリーフが数多くある中、私のお気に入りは(ばくちを)打って、(酒を)飲んで、(色に)溺れる様子を描写した煩悩を表現した壁彫刻。反省を促されます」、「インドネシア人の母を持つオバマ米国大統領は少なくとも2回この遺跡訪問し、ご利益があるとされる仏像のレリーフのお腹に触れ大統領になった。私は1,000回以上触ってみたが、まだガイドを続けている」など洒落の効いた説明に引き込まれながら頂上に向かった。
昼になり遺跡を後にして、昼食会場のストゥーパ・レストラン(Stupa Restaurant by Plataran)に向かった。
HP http://plataran.com/venues-dinings/stupa/
ボロブドゥール遺跡を熱帯雨林越しに遠目に眺めながら食事ができるレストラン兼宿泊施設でランチを頂いた。手の行き届いた庭園やアジアと西洋の折衷建築が美しい。そして何よりも、スコールで白い蒸気に包まれたパームトゥリー林の向こうに見えるボロブドゥールの景色はとても神秘的で、自然と悠久の歴史に思いを馳せる。
この日の最終プログラムはインドネシア観光省職員、ジョグジャカルタ市役所職員、同市内旅行関係者やメディア関係者との夕食会が宮殿の応接室を模した市内の伝統料理レストランBale Raosで行われた。当初は同市長が夕食会に参加する予定であったが、公務が発生し欠席。代わりにジョグジャカルタ市 経済・開発 市長専門スタッフのブチョー氏が出席し「ジョグジャカルタは日本の京都のような古都。二つの世界遺産があり古いジャワの文化が色濃く残るインドネシア国内でも見どころが多い特別な街です。ぜひ、友人や家族を連れてもう一度来てください」と市長からの歓迎の言葉を代読した。
夕食会中はいたるところで名刺交換や記念写真撮影が行われていた。
会場HP http://www.baleraos.co.id/tentang-kami
インドネシア政府招請FAMトリップ現地報告 第6回 (10月10日) 【最終回】
調査研究部 森内 壮夫
※事業主催者からのFAMトリップに関するビジュアルイメージを多用するようとの要望を受け、写真を多く使用しておりますことをご了承ください。
今回のFAMトリップも終盤に近づいてきている。ジョグジャカルタ2日目となる本日の午前中は歴代ジョグジャカルタの王族が暮らす王宮クラトンを訪問した。
ジョグジャカルタは8世紀にヒンドゥー教の王国によって建設され、18世紀以降はイスラム教のマタラム王国の首都として栄えた。街の中心部に建つクラトンは1756年にジャワ建築の粋を集め建造され、スルタンと呼ばれるイスラム国王が代々暮らしてきた場所。現在は第10代スルタンのハメンクブオノ10世が敷地内の一番奥で暮らしているが、一部の建物が博物館として一般公開され、歴代スルタンの肖像画や家具調度品等が展示されている観光名所だ。
ホテルからマリオボロへと移動し、そこからベチャ(3輪タクシー)でクラトンへ向かった。中に入ると目を引くのがジャワの民族衣装を着た老人達だ。彼らはスルタンの家臣の子孫で王宮の守り人として現在もスルタンに仕えている。彼らの腰にはユネスコの無形文化遺産にも登録されているインドネシア伝統の短刀「クリス」が収められており、何かあったときには自身の身を挺して王を守るというオーラを放っていたのが印象的であった。
クラトンを後にし昼食後バティック体験染めをするために染物工房へ。ウィキペデイアの説明を借りれば「バティックはインドネシア、マレーシアのろうけつ染め布地の特産品。 インド、スリランカ、イラン、タイなどでも多く見られるが、インドネシア、マレーシアのものが最も多い。 特にジャワ島のものが有名なため、『ジャワ更紗』と呼ばれることもある。2009年にユネスコがインドネシアのバティックを世界無形文化遺産と認定した」とのこと。今回は職人の指導の下ハンカチサイズの布に象や蝶のモチーフをデザインし染める工程を体験した。
専用の道具に溶かした液状の蝋であらかじめ下書きされた布地をなぞるのだが、道具から出てくる蝋の量をコントロールすることが困難でこれがなかなか上手くいかない。蝋でデザインした木綿生地を藍染すると、きれいな藍色に各自のデザインが浮かび上がった瞬間には歓声が沸き起こった。染め終えたのちに乾燥時間を利用してショップで買い物をした。
今回訪問したバティック工房はジョグジャカルタ市の中心部にあり、付近には若手クリエーターのアトリエなどが立ち並ぶ洒落た地域であった。観光客も少なく穴場的な体験に参加者も満足していた様子であった。
この日の最後はジャワ地方の昔ながらの農村を復元したオマー・ケチェボンという、様々な体験付きのレストラン兼宿泊施設で夕食。夕食前に昔ながらの牛車に引かれのんびりと農村を回る。舗装されていないあぜ道を水牛に引かれながら陸稲やトウガラシなどが作付けされた畑の中に古い家屋やその周りで遊ぶ子供たちを眺めた。
オーナーによると最近はインドネシアの原風景を求める人たちの需要に応える形で、このような「昔ながらの暮らし体験」を売りにする施設が複数できており、海外からのインバウンド客にというよりは都会暮らしに疲れたインドネシア人たちに人気だという。竹馬やムカデ競争などの昔遊びを一通り体験し、夕食会場へ。バティックの実演やわらを使って人形を作るなど、来客を懐かしい気分にさせる趣向が凝らされている。地元の歌姫も登場し、ローカルソングの踊りの輪にFAMトリップ参加者も加わり大団円を迎えて約1週間のプログラムが終了した。
11日に一行はジョグジャカルタからバリに戻り、シンガポール経由で成田に帰った。参加者からは「今回のFAMトリップは個人旅行ではなかなか味わうことができないニッチな内容が加えられていた部分が特によかった。有力な海外旅行デスティネーションとして友人や関係者にお勧めしたい」との声もあがり、インドネシア観光省として北海道からのインバウンド客拡大の可能性に一定の手ごたえを感じていたようであった。
※本稿をまとめ内容を加味したものをHOPPOKEN冬号(2017年1月発行)に掲載予定です。
ア 調査研究・資料収集事業(2015年度)
各種対外経済交流関係の事業に参画し、調査・情報収集を行った。
① ロシア極東地域ビジネス展開モデル事業委託業務」の受託
8月24日~平成28年3月25日 委託元 北海道
(株)道銀地域総研、(株)FECマネージメントとのコンソーシアムにより受託
② モンゴルとの「貢献と参入」ビジネス促進事業への参画
ウランバートル市で開催されたフォーラム等に本道企業関係者らとともに参加し、
モンゴルの政府関係者や企業関係者等と意見交換などを行った。
ⅰ)「第1回モンゴル・日本モンゴル農牧業フォーラム」(6月)
ⅱ)「北東アジア市長国際フォーラム」(9月)
ⅲ)「モンゴル北海道ビジネスセミナー(道主催)」(11月)
③ 境界研究事業への参画
境界研究ネットワークJAPAN「根室セミナー」(平成28年2月 根室市)に自治体関係者や研究者等とともに参加し、「境界地域」の振興やボーダーツーリズムについて議論を深めた。
① ロシア極東・シベリア・中央アジアとの経済交流に関する調査訪問
サハリン州での「サハリン州・北海道経済ミッション」(10月)や「サハリンとの観光交流促進事業・アウトバウンドモニターツアー」(12月)を始め、「経済交流促進に関する中央アジア(カザフスタン・キルギス)訪問」(10月)、「ロシア水ビジネスミッションinイルクーツク」(平成28年2月)に、それぞれ本道企業関係者などとともに参加して、本道との経済交流の課題、可能性等を調査した。
イ 国際情報ネットワーク事業
インターネットを活用して国際交流等の情報を集約・蓄積し、広く道民などに提供した。また、Facebookにより、事業の実施予定や実施結果に関する情報のタイムリーな発信に努めた。
ホームページアクセス数 4月~2月 月平均 3,807件
ウ 年報発行
2015年版を8月に発行し、会員や関係団体等へ配付した。
エ 国際協力情報収集提供事業
道内の国際協力活動などを紹介するため、国際協力情報紙「であい」を3回発行し、会員や関係団体、市町村等に配布した。
オ 季刊誌 「Hoppoken(北方圏)」の発行
会員を始めとした道民に、国際理解の促進に資する情報や、国際交流等の取り組みに関する情報を提供することを目的に、年4回、各1,500部発行している。
◎夏号(172号)7月発行 特集として米国の「政権とメディア」の関係性について取り上げ、情報規制を強めるオバマ政権や第4の権力としての米国におけるメディアの中立性について紹介。また、ハイエック研究員によるレポート「JAゆうべつ町の野菜、サハリンへ」やハイエック平成27年度通常総会の開催結果などを掲載した。
◎秋号(173号)10月発行 特集は、通算20年に及ぶロシア滞在経験を有する毎日新聞社モスクワ支局記者による「私が見たロシア人~モスクワからの報告」。また、帯広在住のフリーライターが帯広で熱を帯びるモンゴルとの交流を紹介した「『今なぜモンゴル?』から『今なぜTOKACHI』へ」やハイエック主催の国際理解促進セミナー「イスラームを知る夕べ」の開催概要などを掲載した。
◎冬号(174号)1月発行 特集は、第2次世界大戦終結まで40年間日本領であったサハリン南部「樺太」を取材した「戦後70年樺太を歩く」と、また、50万人近い旅行者を北海道に送り込む台湾との今後の交流のあり方を提起する「台湾と北海道~交流時代の課題」。また、2015年ミラノ万博における北海道の取り組みやサハリン州、南米ペルーとの姉妹都市交流をもとに地域活性化に取り組む剣淵町を紹介した。
◎春号(175号)3月末発行 特集は、毎日新聞中国総局長による「北朝鮮と音楽」。また2月に開催された「中国・北海道経済交流会議特別セミナー」、「第2回国際理解促進セミナー~イスラームの基礎を知る」の結果概要や平成27年度海外派遣事業参加者の感想文などを掲載。