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国際相互理解促進事業報告

◆【5】-2北方圏交流新時代―新千歳‐ヘルシンキ線就航に向けて――北海道とフィンランドの様々な交流――北海道フィンランド協会会長 井口光雄さん(HOPPOKEN誌165号・国際交流貢献者列伝から転載)

 

≪2.民間交流≫

 

 北海道とフィンランドの民間交流の礎はたった一人の人物の思いによって築かれたといっても過言ではない。その人物が北海道フィンランド協会会長の井口光雄氏だ。実際、今回の取材でも井口さんにアドバイスをたくさんいただいたし、現地で会う人会う人に「Mikko(井口さんのフィンランドでのあだ名)は元気か?」と尋ねられた。井口さんとフィンランドのなれ初めなどについてハイエック吉村慎司研究員(現・客員研究員)がHOPPOKEN誌165号(2013年・秋号)に書いた記事がある。井口さんを知るには最も優れた資料だと思っており、以下記事を転載する。

 

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【HOPPOKEN165号 国際交流貢献者列伝―北海道フィンランド協会会長 井口 光雄】

ハイエック研究員 吉村 慎司

 

 新たな連載となる本シリーズでは、北海道の国際交流に貢献してきた民間人の功績を記すこととする。初回は、北海道フィンランド協会の井口光雄会長(79)を紹介する。

 

 

 「来秋、知事にフィンランドへ行ってもらいたいのですが」。1974年の秋、道庁の一室で井口光雄氏は知事室長と向き合っていた。まだフィンランドとの交流団体が存在しないころである。当時の井口氏は、映像制作会社を立ち上げて3年目の、一民間企業経営者だった。

 実現しようとしたのは,翌秋ヘルシンキで開かれる「フィンランド日本協会」の創立40周年記念式典に、北海道の代表として堂垣内尚弘知事に出席してもらうことだ。この協会は第二次世界大戦前、日本渡航経験のある宣教師グループや貿易業者らがつくった民間交流団体だった。実は73年に、この団体が受け入れ窓口となって、北海道内の青年視察団がフィンランドでのホームステイを体験していたのである。井口氏は会社経営と並行して、この青年視察を企画した松坂科学文化振興財団(現在の財団法人北海道青少年科学文化財団)の理事を務めていた。

 

 

日本でフィンランド野球「ペサパッロ」の愛好家を増やし、ワールドカップにも出場した(1992年、ヘルシンキ)

 

 青年視察のやりとりの中で、協会側から、40周年式典に道内の要人を招きたいとの打診を受けていた。折しも北海道は堂垣内知事の旗振りで、北欧など寒冷地の暮らしを学びながら相互の社会を発展させようとする「北方圏構想」を打ち出している。フィンランドとの交流は大いに構想の趣旨に沿う。両地域の結びつきを太くする絶好のチャンスと考えた井口氏らは人脈を辿って道庁に働きかけ、知事室長との面談にこぎつけた。

 後日、知事室から井口氏の元に連絡が入る。「知事は渡航に前向きだ。だが来年の話でもあり、調整をさせて欲しい」。翌75年の春になって、渡航が正式に決まった。フタを開けてみれば知事は南米の北海道人会を訪ねる用事もあり、南米から北欧に飛ぶという異例の行程だった。

 そして9月10日、知事はノルウェーを経て、現地時間の夕刻にヘルシンキ空港に降り立った。先に現地入りしていた井口氏は、関係者とともに空港で知事を出迎えた。「奥様を連れて到着した堂垣内知事の顔を見て、こんなに遠い北の国まで本当に来てくれたんだと胸が熱くなりました。仲間内では、冗談半分ですが本当に大丈夫なのかと言い合っていたくらいでしたから」と振り返る。

     ◇

 井口氏が初めてフィンランドに関心を持ったのは、北海道放送(HBC)グループで記者として働いていた1968年、フランス・グルノーブルで開かれた冬季オリンピックの取材を通してだった。系列のJNN取材チームの一員として現地に渡航。このとき北欧には行っていないが、ノルディックスキーなど主要種目で強豪選手がいることで、フィンランドの存在が強く印象に残った。翌69年、別のテーマで欧州を取材した際にヘルシンキに立ち寄ったのがフィンランドへの初入国となった。

 縁はここで終わらなかった。70年の大阪万博で、北欧5カ国が共同で「スカンジナビア館」を設置。万博が終わった後、不動産会社経営の松坂有祐氏を中心に道内の数社が協力してこのパビリオンを石狩市(当時は石狩町)に移設することになった。このときにHBC内で担当者として白羽の矢が当たったのが、井口氏である。

 フィンランドとの交流に本格的に取り組むようになったのは、文化振興財団の理事として、青年視察団の北欧派遣を企画したのがきっかけだった。自らペンを取って北欧諸国の主要市に手紙を書き、唯一返事が来たのが、フィンランドだった。ヘルシンキ市宛で出したが、返信者の名前はフィンランド日本協会となっている。協会の存在を知ったのはそれが初めてだった。協会が受け入れ団体として全面的に協力してくれたおかげで、73年10月、40人の若者を連れて行くことができた。「ほかの国にも寄りましたが、フィンランドはホストファミリーを始め大勢が空港で出迎えてくれるなど、ほかとは対応が違いました。参加者の多くが、フィンランドに好印象を持ったと思います」。ここでできた現地の人との関係が、2年後に知事を動かすことになる。

 

道内の青年約40人を連れて訪れたヘルシンキ(1973年)

 

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 井口氏の人脈と行動力が、対フィンランド交流を発展させたのは誰もが認めるところだ。井口氏は1934年に東京・神田で生まれた。育ったのは疎開先の新潟で、県内の高校から北大に進学する。恵迪寮で生活した教養部時代、「周囲におだてられて」自治会委員長に立候補し当選。卒業後はニュースを取材するHBC子会社に入り、札幌や旭川で記者、ディレクターとして活動した。

 72年に独立し、映像や展示物の製作を手がける会社「現代ビューロー」を立ち上げる。経営者として、アイヌ民族博物館や札幌市青少年科学館の展示空間を始めとする数々の実績をつくる一方で、文化振興財団をベースに対北欧交流の活動も展開。「当時は北方圏構想が非常に盛んに語られていた時期で、私は伊藤隆一先生や辻井達一先生たちの後ろにくっついていただけ」という自己評価とは別に、民間交流のキーマンとなっていった。

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 堂垣内知事のフィンランド訪問により、いくつかの流れが生まれた。一つは札幌医科大学とヘルシンキ大学医学部の研究交流である。知事が学長との面談時に提案。青少年訪問団受け入れのスポンサーになったパウロ財団もバックアップし、77年に提携が実現する。40年近く経つ今も、研究者の交流が続いている。

 もう一つがクロスカントリースキーを日本に紹介することだった。今村源吉・道教大教授の取り計らいもあって、グリーンランドを横断した探検家でもある競技指導者エリキ・ピヒカラ氏を、ヘルシンキで知事に紹介した。知事はスキー愛好者でもあり、「歩くスキー」を道民に広めることに強い興味を示した。その場で、道としてピヒカラ氏を招聘することになり、これは半年後に実現することになった。

 

グスタフソン駐日大使とともに「歩くスキー」を楽しむ(2011年、札幌)

 

 さらに、交流団体の設立も知事訪問が直接の契機になった。フィンランドに日本協会があるのに、北海道にはそれに相当する団体がない。事実上知事に促される格好で、76年10月に北海道フィンランド協会が発足する。井口氏は当初理事だったが、79年に専務理事に就任。2007年から現在まで会長を務めている。フィンランド野球「ペッサパロ」の普及活動、先住民族であるサーミ民族とアイヌ民族の交流事業など、フィンランド協会のこれまでの実績は数知れない。発足翌年から始まったフィンランド語講座は途中2年を除いて毎年開かれており、近年では安定的に50人前後が参加している。

 

アイヌ彫刻でつくったサンタクロースの人形を、「サンタ村」のロバニエ市にプレゼント(1986年)

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 「皆さんは7人の侍です」。今年5月、井口氏は北海道フィンランド協会の事務室で、集まった7人の理事に語りかけた。交流の顔として活躍を続けてきた井口氏だが、70代も最後の1年に入る。3年後には協会は40周年を迎える。いつまでも〝井口のフィンランド協会〟ではいけないと、組織の運営体制を思い切って変えることにした。各理事の役割を明確にし、これからやるべきことを話し合った。「そうすると、皆やる気を持って動いてくれるようになりました。もっと早くこうすればよかった」。フィンランドと北海道の交流を担う後継者が、続々と出てくるに違いない。

 

エゾヤマザクラをフィンランドに植える取り組みを続けている。左端は横山名誉領事(2012年、ヘルシンキ)

 


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